割礼儀礼の現場から


オンラインエッセイ(2000.1.16) 活字媒体未発表



割礼儀礼の現場から:割礼儀礼について

静岡県立大学国際関係学部 湖中真哉

 割礼(circumcision)とは成長期に性器の一部を切除する慣行のことです。男性の割礼の場合には、陰茎包皮を切除し、女性の割礼の場合には、陰核全体あるいはその一部を切除することがみられます。割礼の慣行を持つ民族は、イスラム教圏、ユダヤ教圏、アフリカ、オーストラリア等に分布しています。
 
 サンブルの社会には割礼の習慣があります。現在でも、大人になるまでには、男性も女性もほぼ100%の人々が割礼を受けていると思われます。このウェブ・ページで御紹介するのは、1999年の夏に行われたサンブルのある少年の割礼儀礼のアウトラインです。この割礼儀礼は執行に一ヶ月以上を要し、数限りない様々なイベントから成ります。ここに御紹介するのはそのごく簡潔なアウトラインにすぎません。
 
 サンブルの社会では、人は様々な通過儀礼を経ることで成熟してゆきます。割礼儀礼を経ることで少年(laieni)は青年(murrani)になります。はじめに割礼儀礼のための様々な準備が何日もかけて行われます。そして割礼師によって手術が行われます。手術の翌日には、割礼を受けた子供の父親に対する祝福があり、女性達と青年達が歌と踊りでお祝いをします。それからしばらくの間、少年は手術の傷が癒えるまで黒衣を身に纏い、鳥を狩って過ごします。そして手術から一ヶ月後、年齢組への入社式を執り行い、年齢組の先輩と盟友関係を取り結んだ後、はれて青年となります。彼は少年時代は母親の作った食事を食べることができましたが、青年になってからは母親の眼前で食事をとることは許されず、彼の同輩仲間と一緒に集団で生活します。
 
 割礼の習慣、特に主にアフリカで行われている女子割礼の習慣は、現在、女性と児童の人権を訴える人々の間で「虐待」だとして非難の対象となっています。彼らは、麻酔を使用しない局部の手術が耐え難い苦痛を伴うこと、手術の後遺症が出産や排泄の際に障害となること、手術の多くが非衛生的な環境下で行われること、手術のナイフを共有することでHIV感染症を広めることなどを廃絶の理由として挙げています。女子割礼廃絶派は、近年では女子割礼(Female Circumcision)という言葉は適当でないとし、女性生殖器切断(Female Genital Mutilation:略称FGM)という言葉を用いてその残虐性を強調しています。サンブルの場合もこの例外ではなく、現在サンブルの居住地では、開発援助団体が女子割礼を廃絶するためのキャンペーンを推進しており、ポスターやパンフレットを配布しています。
 
 私自身は割礼の習慣それ自体について、廃絶を訴えるつもりはありませんし、存続を訴えるつもりもありません。また、これまで経済を中心とした調査を行ってきたので、割礼に関して詳しいわけでもありません。ただ、以前に学園祭で女子割礼の問題を展示する計画をたてておられる高校生の方から質問の電子メールをいただいたことがあり、なんらかの形で参考になるような資料をオンライン上に公開したいと考えました。女子割礼の否定でも肯定でもなく、実際そういう事が行われているという現状を知ってもらうことから始めたいとその方は書いておられました。そこで私のホームページを御覧になったそうです。少なくともアフリカで多少なりとも経験を積んだ人類学者として、そのような知りたいという願いには、なんらかの形でお答えするべきだと考えました(ちなみに手元の検索エンジンで「割礼」をキーワードにインターネット検索したところ、ほとんどが医学か社会運動の観点からの記事で、人類学者による民族誌的報告は皆無でした)。
 
 私達は、現在女子割礼の廃絶を訴える主張に関しては、莫大な量の情報を得ることができます。既に女子割礼を扱った本も出版されていますし、近年では新聞やテレビでもこの問題は報道されるようになってきました。そのほぼ全てが女子割礼非難の大合唱です。しかしながら、割礼を実施している当の人々の姿や声が人目に触れる機会はめったにありません。幸いなことに、人類学のフィールドワークという調査手法と、インターネットという情報発信手段の組み合わせは、そのような少数者の立場に情報発信の機会を与えてくれます。
 
 私の調査地の人々の声から始めましょう。現在、サンブルの人々の多くは、女子割礼廃絶の運動に反対しています。というよりも自分達がこれまで何の疑いもなく続けてきた慣行が、何故突然非難の対象となってしまったのか、彼らは大変困惑しています。彼らは決まって言います。「どうして、何が良くないの?」 サンブルの人々は割礼を済ませていない人間を決して一人前の人間として扱いません。サンブルにとっては、いくら年齢を重ねていても割礼の経験のない人間は、あくまで「子供」なのです。先進国の人々が割礼を野蛮な習慣とみなしているのと同じ様に、サンブルにとってはいい年して割礼を受けていない人間こそ野蛮とみなされます。幼い子供達はもちろん割礼の苦痛を恐れていますが、ある程度の年齢になると、逆に親に早く自分を割礼してくれと訴えます。このウェブ・ページで御紹介する少年も早く割礼してくれとずいぶんとすねたものです。嫌がる子供を無理矢理割礼したわけではありません。
 
 女子割礼廃絶派の主張のなかには明らかな誤解もあります。割礼手術のナイフを共有することで、HIV感染症を広める原因を作っていると彼らは主張していますが、実際には私の調査地の人々は一人一人に別々の剃刀を使用しており、剃刀が感染媒体になる可能性は全くあり得ないと反論しています。しかし、そもそも、割礼の是非について論じるのに医学的な根拠を挙げることは論理的に間違っています。医学的に良くない慣行は廃止されなければならないのであれば、断食や苦行を行う世界中の宗教者の修行にも同様に廃止を訴えるべきです。宗教者の修行に対しては高尚な価値を認め、割礼に対しては野蛮な行為として断罪するのは、アフリカの文化に対する偏見が根底にあるからではないでしょうか。これは、科学的説明の衣を纏ってはいるものの、実際は極めて政治的な問題であり、サンブルの人々自身も近年薄々そのことに気づき始めています。彼らは言います。「あの連中は科学的なふりをしているだけだ」。
 
 このウェブ・ページに示されたサンブルのある少年の割礼儀礼は、少なくともそれが不可解な残虐行為などではなく、文化的な洗練の極みにある儀礼であることを物語っています。サンブルの少年は、割礼の儀礼を通じて、成長した喜びを周囲の人々と分かち合い、母親に別れを告げ、先輩から仲間入りを祝福され、生涯にわたる友人を作りだしてゆきます。家畜を育てることに人生のほとんどを費やす牧畜民である彼らは、人間であれ家畜であれ、生命の成長に対して強い感受性を持ち合わせていることが伝わってきます。
 儀礼の進行に従って感情は高揚してゆきます。女達は泣き叫び、男達は興奮のあまり卒倒します。一人前の人間となることとは、単に肉体的な成長を遂げることではなく、苦痛を乗り越えて自らの感情を統制する術を知ることである。儀礼を通じて、その教えを少年は身に刻みます。このウェブ・ページの貧弱な写真やムービーでは到底お伝えすることができませんが、煌びやかに彩られた勇壮な儀式は、まるでオペラの一幕を観るかのようです。実際にその場で儀礼を経験した時の興奮と感動は、とても言葉に尽くせません。果たしてこれを「児童虐待」と決めつけてしまってよいものでしょうか?
 
 繰り返しますが、私は割礼の廃絶も存続も主張するつもりはありません。それは、中立を気取っているからではなく、いかなる事実に対しても開かれた態度を維持するべきだと考えているからです。割礼を廃止するか存続するか、それは最終的には、サンブルの人々自身が決めるべきことです。たとえどのような優れた思想の持ち主であれ、実状をよく把握しているわけでもないのに不変の見方を彼らに押しつけることは慎むべきだと考えます。外部の人間がなんらかの医学的助言を行うのならば、押しつけではなく相互の理解を前提とした「対話」を目指すべきではないでしょうか。

 現在、女子割礼の廃絶を訴えているのは主に欧米諸国です。今のところ日本国内の論調は、それに無批判に追従しているものが目立ちます。私達日本人は、何でもかんでも欧米諸国の主張に同調するのではなく、アフリカと同じ非西欧世界の一員としての立場から、(廃絶論であれ、存続論であれ)時には独自の見解を示してもよいのではないでしょうか。私は割礼について考える度に、日本人にとっては美徳であった多くの慣習が、かって西欧の人々の目には大変奇異に映ったことを想起します。
 
 かって、民俗学者柳田國男は、同時代の日本人に対して言いました。
 
 「それが果たしてよいか悪いか。または今後も続けるか中止するか。それを決定するのは諸君であるが、それはともかくも事実を知ってからでなければならぬ。」(『現代科学といふこと』)
 
 割礼に関して、私達は声高に主張するばかりで、あまりにも現場の事実を知らなさ過ぎます。私は、どのような立場の方に対しても、できるだけ事実そのものを知っていただきたいと考えます。ここに公開するささやかな資料が、疑問を抱いた人に対して、議論を「開く」きっかけのひとつになれば幸いです。

*追記:上記の文章で繰り返されているように、私は割礼の廃絶や存続を目指してこのコンテンツを公開したのではありません。私自身は、サンブルの人々自身が望むなら割礼を廃絶しても全く構わないと考えています。廃絶に反対しているのは私ではなく、サンブルの人々自身であり、だからこそ、ここに資料を公開しているのです。私がここで目指しているのは、あくまで現地の「資料の提示」であり、その意味で最初から廃絶や存続を主張することを目指して作られたウェブ・サイトとはそもそも全く目的が異なります。今後、割礼の痛みを訴える子供の言葉がこのホームページに登場することも十分にありえます。


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